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1870年7月に勃発した普仏戦争に際して,Billrothは弟子のCzernyとともに,このときはウィーン大学にあったため,オーストリアからの篤志救護団の「外国人医師」として,戦場となったザール地方へと向かい,寝食を忘れて戦傷者の治療にあたった(図1).このときBillrothは指揮者としての才能を十分に発揮し,新設されたマンハイムの野戦病院にて戦傷者の治療を体系立てて行ったのである.さらに,Billrothはこのときの軍陣外科の経験を「ベルリン臨床週報」に20数回にわたって報告した.そして,この篤志救護の功績から母国ドイツから鉄十字勲章を授与された.弟子のEiselsbergによれば,Billrothは終生この勲章を一番の誇りにしていたという(図2).
その後,普仏戦争が終結した1872年に「ドイツ外科学会(Die Deutschen Gesellscaft fur Chir-urgie),図3」が創設されたのである.図3に示した写真は,ドイツ外科学会の総本山ともいうべき「Langenbeck-Haus」に飾られた壁画であり,この中には創設の際に中心となった外科医達が描かれている.彼らはBillrothと同世代であり,各自外科学史上に輝く業績を残しているので,人物像とともに紹介する.なお,外科学会創設に関してはBillrothへ事前の相談はなかったようである.Billroth自身も,業績の発表というものはお祭り的になり勝ちな学術集会においてではなく,原著論文として紙上発表すべきものと考えていたようで,Billroth自身はあまり外科学会総会には出席していない.このようにドイツ外科学会にはあまり協力的ではなかったBillrothではあるが,1887年にはLangenbeckに次いで二人目の名誉会員に推薦されている.なお,ドイツ外科学会総会は1892年から前述したベルリンの「Langenbeck-Haus」で定期総会が開催されるようになった.
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