書評
—著者 Christopher Pallis,M. D. F. R. C. U. (Reader emeritus, Royal Pastgraduate Medical School, London)訳者 植村 研一(浜松医科大学教授・脳神経外科学) 中谷 比呂樹(厚生省医務局医事課) 西川 正郎(厚生省医務局医事課) 厚生省医務局医事課 監修—人間の死と脳幹死
岩田 誠
pp.1190
発行日 1984年12月1日
Published Date 1984/12/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1406205425
- 有料閲覧
- 文献概要
ある時釈尊のもとへわが児に与える薬を求めに来た女があった。女は腕の中の幼児が既に死んでいるのに気づいていなかった。釈尊は女に,「昔より,かつて一度も死者を出したことのない家からケシ粒をもらってきて児に与えよ」と教えられた。女は死んだわが児を抱いて家々を訪ね歩き,ついに死とはいかなるものかを悟るに至って,始めて愛児が死んでいるということに気がついたという。釈尊が愛児の死んでいることを直接告げられなかったのは,女に対する憐憫の情からということもあろうが,それ以上に,死を理解するに至る過程を重視された為に違いあるまい。がように,"死"は人間の事象のうちでも最も普遍的かつ日常的なものでありながら,それを本当に理解することは容易なことではない。目前にくり返えされる死を何度となく経験することによって始めて死を真に理解するに至る,という時間的経過が必要なことは,現代においてもなんら変わることがない。
近年,わが国でも脳死に対する論議がしばしば大きく取り上げられているが,その多くは,臓器移植との関連においてか,または,いわゆる尊厳死をめぐる問題としてとりあげられるかである。しかしこれらの視点から論ぜられる時,脳死の認識とその判定の問題は,しばしば「死を認識すること」ではなく,「死なせること」についての議論となってしまう。
Copyright © 1984, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.