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かくしてWienを追放同様の扱いをうけて立ちのかざるを得なくなつたGallは,神学から医学に転じ1800年以来,彼の助手をつとめていたTrier出身のJ.C.Spurzheim(1776〜1852)を道連れに,夫帰仲円満でなかつたが生涯世話を見つづけることになる妻Maria Katharinaを友人Streicherに託して,1803年3月ドイツへの講演旅行に出立した。自分の脳器官学説を説くのみならず,「北ドイツの学者達の意見を聴く」ことをも目的としたGallの足跡は,ドイツのみならずデンマークやオランダにも及び,故郷Tiefen—bronnに病父を訪ねもして2年半の長きにわたる大旅行となつたが,彼の計画中にあつたペテルブルグ(ロシア)訪問は実現せずに終つた。この講演旅行は各地に賛否両論の大反響をよび起し,Paris到着以前に彼の名と学説をヨーロッパ全土に有名にしたという意味で大成功であつたが,当時の著名な医学者のみならず,代表的な文人や科学者と交わつて意見を交換し,自らの学説と人間を磨く機会をGallに与えた点でも自他共に有益であつたことは想像に難くない。旅行中Gallは携行した頭蓋コレクションの一部を講演に用いたのみならず,新たに頭蓋や石膏像(胸像,デスマスク)の蒐集につとめ,自分の頭の石膏型--DresdenのZwinger宮とLeipzigのCarusコレクションに保存されているはずだが,現在よくわからない--を作製させる一方,公開の脳解剖では脳割せずに神経繊維の走行を解離してみせる独特の手技を実演して見せた。Gal1はまた精力的に各地の病院(たとえばPforzheimの精神病院),盲学校,聾唖学校のみならず監獄(たとえばそれぞれBerlinとDresdenの近郊にあるSpandauやTorgau)をも見学して,頭蓋学的知見を豊かにせんと試みる一方,治療,教育や収監上の改革案を提示したといわれる。
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