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前回紹介したBrocaの,今日あまりにも有名な業績が近代神経心理学の直接の出発点となつたことは言うまでもないが,彼とて何の伝統の背景もなく,企くの零から出発した訳では決してなかつた。否むしろ,Brocaの発見は,19世紀前半に既に胎動しはじめていた大脳届在論と「構音言語の座(siège du langagearticulé)」(Bouillaud1825)をめぐる熱烈な論争という土壌があってはじめて生れ得たというにとができるのであつて,その意味ではBrocaが1861年に参加したL.P.Gratiolet(1815-1865)とS,A,E.Auburtin(1825-1893?)の議論の導火線となつたF.J.Gallの頭蓋学Schtidel—lehre,craniologie--弟子のJ.C.Spurzheim (1826)によつて骨相学phrenologyと呼ばれることになる--の局在論的仮説の歴史的意義を忘れることはできない。Gallの学説はしはしば,基盤とする心理学と方法において早産した「偽科学」と呼ばれ,「われわれとほとんど同時代」であるBrocaやWernickeより一時代前に属すると見做されるが,このような限界は彼の中司時代人たちも又多少とも荷わねはならなかつた時代的制約にも由来するものであり,彼の学説は「その内容によつてはむしろ多方面に実り豊かな刺戟を与え」(Neuburger1897),「本質的には誤つてはいても科学的思想を進展せしめるには充分正しい理論の一例」(Boring1897)とも言えるであつて,これと前後して同じく19世紀の世論を湧かせ学界を二分したメスメリズムやダーウイニズムと同様に,その厳密な評価は容易ではない。骨相学をめぐる議論にはMaine de Biran,Comte,Hegel,Schopenhauerといつた当時の代表的哲学者すら参加し,その影響は犯罪人類学や教育学にまで及んだのであつて,その精神史的意義は近年あらためて検討(Lantéri-Laura 1970,Giustino1975,Lesky 1979など)されつつあることは別としても,神経心理学にとつては少くとも研究者の眼を最終的に大脳皮質に向け,皮質における平面的局在論的思考を刺戟し,直接にはBouillandやScotland学派など失語学の先駆者に,その後数十年間にわたつて検討されることになつた基本的作業仮説を与えることになつたという意味で極めて重要といわねばならない(詳しくはHécaen&Lantéri-Laura1977参照)。以下,Gallの生涯を素描しつつ,彼の学説の概略を紹介してみよう。
FranzJoseph Gallは1758年3月9日,西南ドイツのBaden州北部,丁度黒森(Schwarzwald)の深い山波が丘陵地帯に移行するあたり,Würm川畔にのぞむ田舎町Tiefenbronn (写真1)において,市長のJoseph Anton Gallを父に,Anna Maria Killingerを母としてと上れた。父の家系はイタリア出ともいわれるが,少くとも数代前より,やや束寄りのStuttgartに近い小邑Weilderstadtに住む商人,教師の家柄であつて,Freiburg大学医学部教授やオーストリアのLinzの司教など卓越した人物をも生んでいる。BadenやBruchsalで中等教育をうけた後,1777年よりライン河を渡つてStrassburg大学に学び,J.Hermannの講ずる比較解剖学に興味を抱いたといわれるが,異郷に病んだ時看病してくれた外科医J.Leiβlerの娘Maria Katharinaを知り,1781年よりWien大学に学んで独立した後,1790年結婚することになる。
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