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Salpêtrièreの生いたち
16世紀の中頃,セーヌ川の右岸にあつた火薬庫に2度の爆発事故が起こり,特に2度目の爆発では多数の死亡者がでたのでルイ13世は住民の安全をはかつて,セーヌ川の左岸,パリの中心地より遠い所に,新しく火薬庫を建てさせた。人々はこれをSalpêtre (硝石,火薬)にちなんでSalpêtrièreと呼ぶようになつた。これがサルペトリエールという名のはじまりである。しかし実際にこの地にhôpitalが設けられたのは,それより約1世紀後の1656年のことであつた。当時は長い戦争の後で多くの兵士達は乞食,盗人と化し,おびただしい数の浮浪者がパリの街にあふれ,一般市民を悩ましたので,ルイ14世はこれらを収容すべくHôpital généralの設立を決定した。サルペトリエールはビセートルBicêtre,ピチエPitié,シピオンScipionなどとともにHôpital géné—ralの一つとして指定され,ここにhôpitalとしての第一歩を踏みだしたのである。しかしこの経緯からわかるごとく,その当時のhôpitalは現在,われわれのいう病院とは,いささかその性質を異にし,施療院ないしは収容所というべきものであつた。ビセートルが男子の,ピチエが子供のための収容施設であつたのに対し,サルペトリエールは女子ならびに特殊な犯罪人のための施設であつた。Abbé Prevostの有名な小説Manon Lescaut (1731)のマノンが警察によつて監禁される舞台となるHôpi—tal généralとはこのサルペトリエールであり,今日彼女の名のついた中庭と井戸が残されているが,この小説によつてその頃のサルペトリエールの様子の一端を知ることができよう。その後建物は次々と新しく建てられ,あるいは建てかえられ,その体裁をととのえていつた。18世紀のはじめには精神病者のための建物も建てられた。有名な精神病医Pinel (1745〜1826)がでて,従来鎖につながれていた精神病患者を鎖から解き放つたのはここサルペトリエールであつた。1815年には老人のためのhospiceすなわち養老院も設けられ,かくしてサルペトリエールが今日の基礎を完成したのは19世紀の中頃であつた。そこにCharcotが現われるのである。
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