Japanese
English
- 有料閲覧
- Abstract 文献概要
- 1ページ目 Look Inside
はじめに
病跡学は分裂病に対して特権的な位置を与えてきた。この疾患の病理が示す現実超脱性や意表を突く横断性の中に,人は「人類の尖兵」とも言うべき姿を認め,天才の創造行為と重ね合わせてきたのだろう。Jaspers10)は,分裂病の発病に際しては形而上学的深遠が啓示されるのであり,それは模倣とわざとらしさが支配する当時の精神状況にあって「真実である唯一の条件」であるとまで述べている。またわが国では宮本14)が分裂病の超越的体験に創造性の起源としての排他的重要性を付与してきた。最近では,加藤11)が分裂病のもつ創造性促進の側面を,病理の発動の段階に即して論じており,とりわけ発病初期前後を重視しているのが注目される。
さて,病跡学の主要な責務の一つとして,創造と病理の関係を問うことが挙げられるだろう。これは「創造が病いにもかかわらず行われる」のか「創造が病いゆえに行われる」のかという定式に代表される問いであるが,両者の関係はともすれば外在的なものと捉えられがちである。そしてしばしば創造性は病理へと回収される。この還元主義的傾向はつねに病跡学につきまとう陥穽であり,そうなると病跡学は「天才の博物学」の域を出るものではなくなるだろう。還元主義を脱する試みは,たとえばEllenberger2)の提唱する「創造の病い」の概念などに認められる。そこでは創造と病理を一元的に捉える視点が示されている。ただ,Ellenbergerの概念はもっぱら力動精神医学に親和性をもつものであり,分裂病に対して適用されうるものではなかろう。
本稿は,分裂病と創造性に関して,還元主義に陥ることを可能なかぎり排した上で,内在的な読みを試みるものである。そこで目指されるのは,天才を疾病によって読むことではなく,逆に天才を通して疾病の姿を映し出すことになるだろう。本稿ではその教示例としてウィトゲンシュタインを取り上げる。まぎれもなく彼はフッサール,ハイデガーとならび称される,20世紀最大の哲学者の一人である。同時にこうした通俗的紹介を受け付けないきわめて特異な存在でもある。おそらくカフカ,ヘルダーリンなどと並んで,分裂病の病理をもっとも高い強度で示す天才であるが,病跡学の対象となる機会は意外に限られている7,9)。ここでは彼の前後期の代表的著作である『論理哲学論考』(以後「論考』)と「哲学探究」(以後『探究』)を中心に内在的読解を試み,病跡学の新たな方向性を模索したいと思う。
Copyright © 2001, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.