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この4年あまり老年性眼疾で退職隠栖,読書も思うに任せなかったが,昨春からやっと小康を得たので,感覚遮断とそれに伴う行動制止によってどのくらい心の廃用性萎縮が起こったかを検してみる目的もあって「狂気の価値」という通俗書を1冊,2,3カ月も費して作ってみた。出版社の意向は症例による精神医学の解説書であるが,内容が陳腐になったのは頭の衰えによる。これを1部臺君に贈呈したところ呉秀三先生が林道倫先生に与えた書のコピーが送られて来た。東大の教授室に掛けてあって長らく封鎖されていたものがこのたび一部解除されて戻されたとのことである。
私は漢文に弱いが何とか読んでみると,ベイフツ石ヲ拝シ,ゲンフ履ヲ撫デ,クットウ菱ノ実ヲ好ミ,リュウヨウ瘡痂ヲ嗜ム,皆古ノ偏癖者ナリ,我ノ精神病学ヲ修ムル,人多ク之ヲ石,履,菱,痂ニ比ス,是我ガ真意ヲ知ラザルナリ,又狂疾ノ真ニ憐ムベキヲ知ラザルナリ,大正15年4月(1926,呉先生定年退職の翌年)というのであろう。初め又狂疾ヲ知ラズ,真ニ憐ムベキナリと読んでしまったが,これより前者のほうが先生の真意に合っていよう。この文章にある人物は磯辺偶渉や医聖堂叢書の癖顛小史にあるが,石を拝むとか履を撫でるとか菱の実を好むとかカサブタを嗜むというのは何であるか分らないので,私の先生の漢学者に質問した。漢学者といっても名大の中国哲学の小守郁子という美しいお嬢さんである。こういう人物の事蹟は晉書,宋書,国語という本にあるのだと,そのコピーを戴いた。何れも毛並みのよい身分の高い人である。ベイフツは小さな辞典にも出ている文,書,画の大家であるが,石が好きで,石を拝んだり,抱いて寝たりしたのだという。庭に石を集めて喜んでいる成金のような人か,石フェチシズムなのであろうか。ゲンフは靴が好きで人が来ると出して磨いてみせた。クットウは美味の中華料理が並んでいてもそれを食べず菱の実を食べていた。リュウヨウはカサブタはアワビの味がしておいしいといって,自分のカサブタをよく食べたので,家臣がへつらって自分の体を鞭打ち傷をつけ,そこにカサブタを作って献上し,この話が広まって人民は賄賂にピーナツでなく自分の体に作ったカサブタを持って行った。1個百万円のピーナツよりも安上りだし,こんな賄賂なら法にも触れまい。
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