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I.はじめに
中南米のインディオ部族にはPintaとよばれる風土病が伝わっている。これはスピロヘータ(Treponema carateum)感染による皮膚病であるが,皮膚の角化斑の他に症状はない。部族の人々はこの斑点を貴重なものと考え,これがない成人は異常とされ,タブーに従って結婚を禁じられているという(van Dijk)84)。このPintaの例は,やや戯画化した形で次の2つの事実を示している。第1は健康(ないし病気)の判断基準が場所や時代によって大いに異なるということであり,第2はこうした健康-不健康の判断と疾病(つまり病理学的実体)の存在との間に時にズレが生じ得るということである。
現代は局地的な文化がそれぞれに養ってきた多様な価値基準が,近代化,西欧化というフィルターを通して画一化されて行く時代であり,種々な領域の価値判断と並んで,健康-不健康の基準もまた大きくゆらいでいる。小論が対象とする習慣飲酒は,肥満や喫煙と並んで健康-不健康の判断が,近年急速に不健康=病気の側に傾いている代表的な例である。その結果,従来なら医療の問題とは考えられずに警察官,司法官,宗教家などの手に委ねられていたような現象にまで医師の判断が求められるようになり,今や飲酒が関与する医療問題,つまりアルコール症は癌,心循環障害,精神障害と並ぶ巨大な健康問題のひとつと考えられるまでになっている。
こうした事態は当然,アルコール症の概念そのものを変質させ「疾病としてのアルコール症」をめぐる様々な議論を刺激し続けている。臨床家の多くはアルコール症を構成する病的飲酒行動をアルコール依存という「疾病過程」の表現とみなそうとしており,これが現行疾病概念の基調になっているが,ここにも未だ概念上の大きな欠陥が残されているとみなければならない。何故なら,薬剤耐性の上昇という薬物依存上の指標を用いる限り「健康な」大量常習飲酒者と病的飲酒者との間に決定的な差異が見出せないからであり,既述したPintaの場合にみられたような健康-不健康判断と疾病の存在との間のズレが常につきまとって,この「疾病」の輪郭をぼやけさせるからである。よく言われるアルコール症概念のわかり難さの本質は実はこの点にあるのである。
臨床家がこうして疾病概念の確立に苦慮している一方では,飲酒問題の「医療化」自体に対する当惑や批判が,医師,非医師を問わず広くわだかまっている。殊に最近は上に述べたような現行疾病概念そのものの無効性を主張して,飲酒問題を疾病の枠組みからはずそうとする議論が目立つようになっており,こうした根本的な批判を前にしてアルコール症の疾病概念はますます厳しい吟味にさらされているように思われる。
アルコール症の概念については最近だけでも,新井3),小片59),小片58)らの解説が出ており,筆者自身43)も4年前に嗜癖概念一般との関連を述べておいたのであるが,上記のような視点から再びこの問題を取り上げ,現行諸概念とその批判の相互関係を検討してみたいと思う。なお,ここではalcoholismにアルコール症の訳語をあてつつ議論を進めている。アルコール症とアルコール中毒alcohol intoxication,アルコール依存alcohol dependence,アルコール関連障害alcohol-related disabilities,問題飲酒problem drinkingなどとの異同は議論の展開につれて明らかになるであろう。
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