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Ⅰ.デカルトの心身論
周知のようにデカルトは,精神と物体をまったく異質な二つの実体--それ自体で存在して,他のなにものにも依存しないもの--と考えました。身体は物体に属するとかれは考えますから,精神と身体は直接交渉することはできません。にもかかわらずデカルトは,現実のわれわれにおいて,精神と身体が全面的に合一していることをみとめます。この合一は全面的であって,精神は身体とすっかり混合し,あたかも一つの全体をなしています。というのも「考えること」を本質とする精神は,物体のように拡がりをもたない以上,身体のうちに特定の空間的位置を占めることはできないからです。そして精神が身体と合一しているかぎり,二種の思考を区別することができる,とデカルトはいいます。一つは「精神の能動」であり,これは精神のみに依拠する意志作用です。もう一つは「精神の受動」としての感覚や情念であって,これは精神のみから生ずるのではなく,それを生みだす「能動」に依存しています。ところが精神が全面的に合一している身体以上に,直接われわれの精神にはたらきかける主体は考えられませんから,精神において受動であるものは,身体においては能動であると考えなければなりません。つまり「精神の能動—身体の受動」また「精神の受動—身体の能動」という対応が成立します。デカルトがこうした精神と身体の相互作用の座として松果腺を考えたことはこぞんじのとおりです。
しかし松果腺のはたらきが何であるかという問題以前に,精神と身体をデカルトのように考えれば,両者は本来交渉しえないはずです。ここにいわゆる心身問題が生じます。そこで晩年のデカルトは,他に還元できない原始的観念として〈心身合一〉をみとめます。精神が純粋知性によって明晰判明に理解されるのに対して,心身合一は感覚や情念においてはじめて明晰にとらえられます。そこで心身合一を理解するには,知性や想像力をもちいることを極力さしひかえ,日常の生活と交わりのなかでそれを把握しなければなりません。心身合一は日常の行動のなかでもっとも明晰にとらえられるというわけです。そして精神が身体を動かし,身体が(感覚と情念を生じさせつつ)精神にはたらきかける力の観念(力は接触なしにはたらきかけうるとデカルトはいいます)は,この〈心身合一〉という原始観念に依存しています。だが〈心身合一〉にしても,〈力〉の観念にしても,デカルトはその考えを十分に展開したとはいえません。それらは心身の交渉という事実の確認にすぎないように思われます。まったく共通するところのない精神と身体が,それにもかかわらず,たがいにはたらきかけうるという理由は,どこにもあたえられていません。
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