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本書は,著者が2000年から2008年の間に現代音楽の作曲家について積み上げてきた病跡学的研究を中心に組まれた論文集である。著者は第一章に「20世紀作曲家病跡学」と題して現代音楽の作曲家群像について解説し,幅広く現代の作曲家の置かれた音楽情勢を描き出したうえで,本書で取り扱われる特異な作曲家たちの位置づけを与えているが,よほどこの現代の音楽の質に肌が合い,日頃から親しんでおられるものと思われ,一般にはあまり著名でない作曲家にまで言及して解説しており,その緩衝領域の広さにまずは驚嘆させられる。本論の個々の議論に立ち入ることはできないが,各病跡学的議論の中に織り込まれた楽曲分析,症状論,気質論,さらには哲学的議論も,それぞれがさまざまな問題意識を喚起し,静かな学問的興奮を覚えて読了した。
とはいえ,本書はごく平均的な精神科医にとっては,少なからず難解な書物でもあろうかと思う。第一に,本書で採り上げられた作曲家がそれほど著名な人たちではない。バルトーク,ヤナーチェクは別にしても,ハンス・ロット,ルーズ・ランゴー,アラン・ペッテション,コンロン・ナンカロウ,ベルト・アロイス・ツィンマーマン,アルフレード・シュニトケ等々の楽想を,その名を聞いただけで思い浮かべられる人は,そう多くはいないであろう。評者自身もこのうちの何人かは聞いたこともない人で,本書を読むに当たってはじめてCDを買い求めた。第二に,かなり専門的な楽曲分析が盛り込まれており,読み進む際に多少「勉強」が必要である。音楽の天才は形式改革を目指すもので,その精神病理は音楽語法を築き上げる局面に現れることが多い。特に現代音楽では和声の有機性organizationを構成する音組織自体への直接的な変革が問題となっているので,作曲家の思考も勢い,音による表現をめぐる原理的な問いへと踏み込んでいく。これらを鑑賞,批評するとなると,ベートーベンやモーツアルトを論じる場合とは異なった音楽理論の参照枠が必要となる。さながら,科学哲学的議論が中性の天文学や近世の化学を論じた後に現代物理学へと論点を移す時のような,多少とも常識的視点とは異質な,あらたな思考枠の偏向,建て直しを要求されるのである。この難関に耐えて読み進むには一定の忍耐力が必要であろう。第三に,著者は自身の仮説を,内海,加藤,新宮,花村,宮本など(アイウエオ順)のわが国の,必ずしも平易とは言えない精神病理学的研究とつきあわせて検討を加えており,精神病理学を専門としてはいない方が議論の行方を追い,内容を消化するのには多少の苦労を要するだろう。
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