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我々が精神科医を目指して入局した頃,世間では精神科医を世捨て人のように思う風潮がまだ残っていた。世に住むにはあまりにも優しく繊細な人たちが,戦いが終わって黄昏時にたたずんでいるような患者とともに,そっと世間の片隅で朽ち果てていく墓守のようなイメージが精神科医にはあった。そうした精神科医のイメージに空想的ロマンティシズムが多分に入り混じっていたことは確かだが,どこかで世間と患者の境界に自らの位置取りをしている精神科医は今でも我々の世代には少なからずいるように思われる。
我々の世代の精神科医の大きな特徴の1つは,精神医学を学ぶことを通して自らが生きるための真理が何らかの仕方で開示されるのではないか,さらに言うならば患者として来院する人たちは,病を通して我々よりも何らかの仕方で生きることにおいて徹底していて,その人たちの言葉に耳を傾けることで,生きるということの真理をより深く教えてもらうことができるのではないかといった漠然とした予感を抱いて精神科医となった人たちが少なからずいたことである。こうした予感は,精神病理学の黄金時代を築いた我々に先行する世代の強い影響に触発されたものであることは間違いないが,しかしおもしろいことにそうした先達と我々の世代にはうっすらとした断絶がある。病を人間という存在の1つの極限的な可能性としてとらえる人間学が我々の世代の精神科医には色濃く跡を残していて,その延長線上には境界侵犯への誘惑がある一方で,他方では境界を向う側へと乗り越えることができず,自分は世間の側にいて向う岸の「本物」の世界を眺めているだけなのだという奇妙な後ろめたさがあり,世間の一員として普通に幸せに過ごしている自分の小市民性への微かな舌打ちがそこには含まれている。こうした独特の私小説的屈折は,我々より上の世代にも下の世代にも例外的であって,他の世代の精神科医においては,我々医師と彼ら患者の間の,診察する側とされる側の境界は当然のことながら自明のこととして画然と線引きされている。
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