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はじめに
1904年I.P.Pavlovはそのノーベル賞受賞記念講演会において,"精神的唾液分泌"について報告した1)。しかし,この考えはまもなく彼自身によって否定された。行動主義心理学の洗礼をうけていなかった当時の心理学の知識では,精神あるいは情動は内省的な方法でしか取り扱えなかったからである。したがって,精神的という言葉を用いるかぎり,精密で客観的な記載を行なうことはできなかった。彼はこの矛盾を解決するために心理学的考慮を除去し,純粋に生理学的次元でものごとを把え,この現象を客観的に記載しようとした。こうしてその後の大脳生理学に大きな影響を与えた輝かしい条件反射学2)の基礎が築かれたといえよう。
Pavlovの条件反射学は当時の医学界を席巻しつつあった分析的アプローチに対する大胆なアンチテーゼであった。当時の医学的研究は,個体という一つの全体をそれぞれの部分に分割し,人為的に単純化した条件下において生体の部分的反応を検証することに向けられ,これらの分析的に把えられた個々の事実を積み重ねてゆけば,やがては器官,系統,ひいては生きた個体という全体の機能を理解しうるであろうというきわめて素朴な信念の上に立って行なわれていた。分析と総合ということは生理学的研究における重要な課題であるが,このような分析的アプローチは現在の医学界においても研究の主流をなしている。ところが脳の機能にかぎらず生体の個々の反応は,すべてある器官,系統だけの独立的な反応ではなく,個体という統合された全体の全体反応の一部分を形成しているものであり,したがって常に全体との関連において観察し把握されるべきものであることは当然である。研究されるべき対象としての全体を人工的に部分に分割し,限定されたものの見方で刺激実験や破壊実験,さらにまた生理学的,生化学的研究を行なうことは避けることのできない研究方法であり,それ自身貴重な情報を提供するものではあるが,同時に生体の反応がこれらの個々の反応の単なる総和ではなく,それらの有機的統合であることも忘れてはならない。
Pavlovは生きた個体を分解することなく,そのままの状態で刺激に対する反応を全体との関連において観察する道を拓いたといってよいであろう。このさいPav—lovが食物以外の刺激に対しては反応することの少ない唾液腺をその研究対象としたことは非常な幸運であったといえる3)。Pavlovとその門下はこの比較的単純な腺分泌を武器として,その壮大な条件反射学的大脳生理学(高次神経活動の生理学)を築きあげた。しかし,他方からいうと,この唾液腺分泌に関する研究は二つの弱点を有していたように思われる。その一つは,人間の生理学として条件反射学を応用する場合,人間が高度に発達した精神的側面をもつ心身統一体であり,この心理をも含めて人間の反応は常に全身的であることである。したがってPavlovがせっかく統合された全体として生体を把握しようとしながら,その研究の方法論として唾液分泌の量という局部的な反応だけを切り離してとりあげたこと4)は,その根本的な統合的立場と矛盾しないかということである。Franks5)も末梢器官の反応性のみを観察することによって中枢過程を推論することの危険性を指摘している。この反応の単純さが条件反射学的大脳生理学の理論構成上有力な武器となったことは明らかであるが,同時に上述の欠陥はいずれ超克されるべきものであったことは,条件反射学の最も基本的な立場である統合的見地からしても明らかである。第二の問題は,唾液腺の外分泌そのものだけでは臨床医学的にみてあまり興味ある研究対象ではなかった3)ということである。したがって,いったん条件反射学説が確立されると,次の段階として,そのメカニズムを究明することと,その学説を唾液腺以外の臓器反応や行動反応に応用することに関心が向けられるようになった。前者としては条件反射形成時における深部脳波の研究6)〜12),大脳辺縁系あるいは脳幹部の破壊ないし刺激と条件反射との関連性に関する研究13)〜17),向精神薬の条件反射に及ぼす影響18)〜24)の研究などがある。これらの研究によって,皮質内臓間の一時的結合が直接的なものではなく,情動反応と深い関係を有する旧皮質や皮質下諸核を介するものであることが明らかにされ,Pavlov自身によってかつて否定された"精神的唾液分泌"という表現法が,新しい意味で復活しつつあるといえよう。後者に属する研究はソビエトにおいて非常に広範に行なわれており,Bykov一門は条件反射学を種々の臓器に応用して,そのユニークな皮質内臓学説(corticovisceral theory3)25))を発展させた。彼らは一般には神経支配の影響が少ないと考えられている腎,肝,胆のうなどの機能に関する条件反射の形成に成功し,さらに心,血管,脾,代謝などに関しても条件反射の形成が可能なことを証明した。しかもこれらの条件反射が従来行なわれてきた外受容器刺激だけではなく,内受容器刺激に対しても形成されうることを示したことは,偉大な貢献というべきであろう。しかし,彼らもまたPavlov学派の常として"心理"を意識的に避け,もっぱら生理学的な立場から論を進めているところに問題がある。
われわれはBykovの皮質内臓学説とは異なり,行動主義心理学の立場から,条件反射ないし条件づけの手技を用いて種々の臓器反応および行動反応について検討を加えてきたので,以下にそれらの成績を混えながら条件反射と心調律との関係について論じてみたい。
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