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書評「人間の死と脳幹死」
岩田 誠
1
1東京大学
pp.488
発行日 1985年5月25日
Published Date 1985/5/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1403109818
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ある時釈尊のもとへわが児に与える薬を求めに来た女があった.女は腕の中の幼児が既に死んでいるのに気づいていなかった.釈尊は女に,“昔より,かつて一度も死者を出したことのない家からケシ粒をもらってきて児に与えよ”と教えられた.女は死んだわが児を抱いて家々を訪ね歩き,ついに死とはいかなるものかを悟るに至って,初めて愛児が死んでいるということに気がついたという.釈尊が愛児の死んでいることを直接告げられなかったのは,女に対する憐憫の情からということもあろうが,それ以上に,死を理解するに至る過程を重視されたために違いあるまい.かように,“死”は人間の事象のうちでも最も普遍的かつ日常的なものでありながら,それを本当に理解することは容易なことではない.目前に繰り返される死を何度となく経験することによって初めて死を真に理解するに至る,という時間的経過が必要なことは,現代においてもなんら変わることがない.
近年,わが国でも脳死に対する論議がしばしば大きく取り上げられているが,その多くは,臓器移植との関連においてか,または,いわゆる尊厳死をめぐる問題として取り上げられるかである.しかしこれらの視点から論ぜられるとき,脳死の認識とその判定の問題は,しばしば“死を認識すること”ではなく,“死なせること”についての議論となってしまう.
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