医道そぞろ歩き—医学史の視点から・33
臨床神経病学を築いたシャルコー
二宮 陸雄
1
1二宮内科
pp.186-187
発行日 1998年1月10日
Published Date 1998/1/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402906656
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パリのサルペトリエール病院は,弾薬のための硝石(サルペトル)の製造所からできた病院である.この火薬製造所はもとはセーヌ川右岸にあって,土塁を隔てて市街に接していたが,市民たちの要請によってルイ13世がこれを市境の外に移した.100年後の1656年に,ルイ14世の命により,女性の浮浪者や貧民や精神障害者の収容施設となり,1780年代初頭に病院に改組され,1795年にピネルが赴任したときには6,000人を収容していた.サルペトリエール病院でピネルが死んだのは1826年の秋であるが,その1年前に,パリの車職人の17歳の妻がシャルコーを生んでいる.
シャルコーは寡黙で冷静な賢い青年で,パリ大学の医学部長に目をかけられ,やがてサルペトリエール病院で痛風と関節炎の鑑別について学位論文を書き,1862年に37歳で主任医師になった.この頃,シャルコーは痛風の原因を鉛中毒と考えていた.臨床神経病学はまだ独立の分野ではなく,シャルコーが神経病学教授になったのは1882年,56歳のときである.シャルコーがサルペトリエールの主任医師になったときは,ロンベルクが運動失調について論じてからまだ15年後で,パリではドゥシェンヌが球性麻痺,ポリオの脊髄前角病変,脊髄後柱病変による運動失調を研究していたものの,医師たちの注目を集めることもなかった.
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