医道そぞろ歩き—医学史の視点から・9
ヤッフォの海は青く—97年後に蘇ったホジキンの標本
二宮 陸雄
1
1二宮内科
pp.192-193
発行日 1996年1月10日
Published Date 1996/1/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402904932
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エルサレムの北方,ヤッフォという町の墓地にエジプト花崗岩のオベリスクが立っています.ホジキン病で名高いイギリス人トーマス・ホジキンの死を悲しんで,親友のモンテフィオレが1866年に立てました.碑には「ほかの国の人のことを彼ほど思った人はいない」とテラン語で刻んであります.クエーカー教徒の家に生まれたホジキンは,ロンドンのセント・トーマス病院の患者の悲惨さを見てその病室の改善を訴えたり,アメリカのインディアンや黒人を守る原住民保護協会に加わるなど,熱心に慈善事業に従事しました.特に晩年にはパレスチナのユダヤ人の保護に力を入れ,ロンドンのユダヤ人事業家のモンテフィオレと親しくして,何度もアフリカや中近東に旅行しました.1866年のその最後の旅行で,ホジキンはパリを経てインドに行き,船でエジプトのアレクサンドリアに寄ってから,ヤッフォとベイルートに向かいました.ところが不幸なことに,この年,パレスチナにはコレラが大流行していて,もともと体の弱かったホジキンは感染し,4月4日にヤッフォの町で死にました.68歳でした.
ホジキンは1798年(寛政10年)にイギリスのペントンヴィルの教師の家に生まれました.ジェンナーの種痘発明の2年後で,本居宣長の『古事記伝』が完成し,伊能忠敬が蝦夷地測量を準備していた頃です.
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