医道そぞろ歩き—医学史の視点から・21
長崎蘭館の医師モーニケ
二宮 陸雄
1
1二宮内科
pp.184-185
発行日 1997年1月10日
Published Date 1997/1/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402904354
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東京大学医学部が,「お玉ヶ池種痘所」に由来していることはよく知られている.痘瘡(天然痘)は,聖武天皇の天平7年(735)に「幼い子供が多数死んだ」と記録されたのを初めとして,日本でも猛威をふるい,寛政7年(1795)初夏から流行した米沢藩ではこの年8,389人の発病者が出て,2,064人が死んだ.長崎で描かれたという「痘瘡図譜」には,その恐ろしい病勢が描かれている.ポンペも「日本ほど痘痕のある人が多い国はない.住民の三分の一は痘痕があるといってよい」と書いている.
日本では,中国医学に拠ってこれを胎毒と天行(宇宙の動き)による悪疫とみて,痘瘡神という悪鬼の退散を祈った.痘瘡が伝染病であることを啓蒙したのは,甲斐の橋本伯寿である.伯寿は長崎で蘭学を学び,『断毒論』(文化7年,1810)を書いて伝染説を主張した.やがて中国から伝えられた「人痘鼻孔内種痘」が広く行われ,次いで蘭学の影響で「人痘経皮種痘」が試みられたが,いずれも重い痘瘡を発病する危険があった.しかし,痘瘡流行による多数の幼児の死亡を目の前にして,江戸や佐倉や水戸でも,嘉永2年の秋や翌3年の1月まで,危険な「人痘経皮種痘」が行われていた.そして,その一方では,中国の医書や渡来西洋人からジェンナーの安全な「牛痘種痘法」のことが伝わり,諸藩の藩医たちの間に牛痘苗の入手に奔走する動きが出てきた.
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