天地人
テュルクの冬の日記から
北
pp.1287
発行日 1979年8月10日
Published Date 1979/8/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402216023
- 有料閲覧
- 文献概要
それはもう,降るほどの星が真っ暗で静まりかえった空をいっぱいに埋めつくしていた.星の点々が水平に切れているあたりが地平線らしい.向きを変えると水平線らしい盆状の高まりが,同じように星くずの光をさえぎる。胸を広げると鼻孔がピタリと閉じて,零下30度の空気をこばむ.けさは9時になっても街灯が黄色みを帯びた光の輪を雪の上に落としていたが,夜半の空には凍えるような星が光る.—数年も前のことだが,偶然の機会にフィンランドのテュルクを,それも正月2日の日曜日にたずねた時分の日記だ.北欧の真冬はさすがに寒さがきびしい.しかし凛とした自然の美しさはその寒さを忘れさせた.その美しさは静けさに包まれた気品あふれるばかりのものだった.日記には続いて,手にしていた冊子の抜き書きがある.
「生命には成長がない.……生命はただ変化である.……雲の,夕映の,さまざまなる色の移り行く変化のみ.生命は!」.五十年前の冬に萩原朔太郎は《青猫,以後》の序にこんなことを書いているが,青猫の中には「……思想はなほ天候のやうなものであるか」「絶望の凍りついた風景の乾板から,蒼ざめた影を逃走しろ」などとうたっている.同じころR.M.リルケは,「むらがる光の群で,夜の闇はできていた」とし,「息をひそめた沈黙の中でまた鳴りひびく,人間のタクトが,いまやって来るものが」とうたい,春となる日へ心を馳せるとともに,大地へ向けて私は流れてゆく,私は在ると宣言している.
Copyright © 1979, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.