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きのう・きょう・あした
山形 敞一
1
1東北大内科
pp.1137
発行日 1966年8月10日
Published Date 1966/8/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402201426
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5月23日青函連絡船「大雪丸」で函館港に着いたのは午前11時であつた。教室出身の函館市立病院副院長H博士ら同窓の諸氏の出迎えを受けて駅前のKホテルで小憩後,ハイヤーで当別に向う。途中函館の町を出はずれた七重浜に青函連絡船遭難慰霊碑が立つている。昭和29年ドイツのフライグルクに留学していた私はストックホルムの第3回国際内科学会議に出席の帰途,西ドイツの首府ボンの駅前の特報ビラで洞爺丸の遭難を知つた。そしてフライブルクの下宿に届いていた妻の手紙で,1000名以上の遭難者があり,そのなかにわれわれの媒酌したW医学士夫妻の混つていることを知らされ,痛恨の念を禁じえなかつた。蕗のしげる山街道には黄色いタンポポが咲いており,崖くずれした岬道を走つてゆくと当別岬の白い灯台が見えてくる。当別の磯は浅く,渚に材を立てて拾いあつめた昆布を乾している。当別駅にはトラピスト修道院のH嘱託医がわれわれを待つていて,修道院まで案内してくれた。トラピスト修道院は海岸から一直線にポプラ並木のつづく街道の真正面の丘陵の上に立つた赤煉瓦の異国的な建物である。H医師の案内で丘の上の修道院に着いたのは正午を少し過ぎていたので,直ちにF神父に紹介され,賓客用の食堂で昼食の御馴走になる。流石にフランス系だけあつて肉や馬鈴薯の味つけも良いし,パンもクッキーもバターもなかなかのものである。
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