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国のため一の杯家のため二の杯を我はあげにけり—侍医30年の西川義方氏に聞く
長谷川 泉
pp.530-531
発行日 1966年4月10日
Published Date 1966/4/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402201268
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にんじん医者・ごぼう医者になれといわれた
長谷川 ご子息も侍医になられて父子2代つづきの侍医というわけですが,最初から医師への途はきまつておりましたか。
西川 いや,私は医師は嫌いでした。中学時代親不孝をした記憶はありませんが,志望のことでは衝突しました。私は子どものときから潜在脚気があつて身体が弱く,頭も悪かつた。両親は,医師ならば身体が弱くてもできると思つておつたのです。そして官途につくことはならぬ,三井,三菱のような大会社もいかぬ,にんじん医者,ごぼう医者になれというわけです。辞令ひとつで首がとんだり,ぺこぺこ頭を下げなければならぬような勤め人はよせ,七兵衛や八兵衛を診てやつてにんじんやごぼうをお礼に貰う医者がいいというわけです。私は数学が好きで,中学時代から三高時代にかけても解けない問題はなかつた。応用問題が出されても一度もできないことはなかつた。解ける解けないの問題ではなく,どうして簡単に解くかということばかり考えた。三高時代,先生に,いつも100点ばかりだが,100点以上の点をなぜつけてくれないかといつたことがあります。私は工科へ行つて世界最大の船を造ろうとも思つた。one and only oneを一生の仕事にしようと思いました。父は,医師は断念するが,工科もやめてくれ,法科へ行つて国の立法をやれ,これなら人に頭を下げることはないというわけです。やむなく,最後は妥協して医師になりました。
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