随筆
お茶一杯
春 三
pp.53-54
発行日 1960年2月1日
Published Date 1960/2/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611201858
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分娩台の上に敷かれたゴム布の上には,うす汚くにごつた羊水に鮮血がまじつて流れゴム布を越して分娩台の縁まで届きそうになつている.姉は数時間前からずつと,ウンウンと唸りつづけた生みの悶えも癒えたのか静かに息をしているが,ぐつと開いた股間には弧々の声をまだあげえない生まれたばかりの児が時々手を動かしている.助産婦は赤から段々ブドー色に変つてゆく娩出児を指先でつまんで引寄せて細いゴム管をこの児の小さな口の中にむりに入れて何かしている.死んだのかなあーと,固唾を呑んで見守つていた.娩出児は窒息してよく死ぬことがあるんだと聞いていたので姉の児も,もしやと云う不安が先走り,大きな生唾がゴクンと自分の喉もとを通るのが感じられた.あたりはもう8時過ぎのためか遙かに遠く電車の音が時々静寂を破るばかり又元の静けさに戻つた.見守ると腰の曲つた80婆さんが何か手先の仕事をしている時の恰好の,云わばヘツピリ腰の助産婦は盛んにゴム管を操つている.助産婦はもう40に手が届く位に見えるが身にまとつた白衣はきちんとしていて割に落着き払つて産科医を呼ぶ様な気配はない.今アツプアツプしている,はかない小さな命を托しているのはこの助産婦だけだ.一人で大丈夫なのかしら心の中の不安と焦慮は如何ともなし得ない.
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