特集 公衆栄養のストラテジー
過去帳が語る天保飢饉の爪痕 否,精緻を極めた衛生統計について
須田 圭三
1
Keizo SUDA
1
1須田病院
pp.106-112
発行日 1983年2月15日
Published Date 1983/2/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401206653
- 有料閲覧
- 文献概要
- 1ページ目
我が国の飢饉とその記録
我が国の主食は稲作による米飯である.したがって一度天災即ち旱魃,水害,蝗等の虫害,台風等に襲われると社会保償制度が整っていなかった明治以前では為政者の救済の方途が徹底せず殆んど凶作即飢饉,更に為政者の救荒対策が十分でないと百姓騒動というパターンを繰り返している.
飢饉は古くは天平宝宇5年(761)より延暦1年(762)に至る21年間は連年国内の何処かで飢饉があったという.養和1年(1181)の飢饉には京都市内で42,000名の死者を,寛正1年(1460)には京都で餓死者は8万余名を出したという.江戸時代に入り全国的な飢饉として寛永12年(1642),元録8年(1695),享保17年(1732),天明3年(1782),天保2年(1833)から8年(1839)頃までの数年間に渉る飢饉が有名である.特に気候の関係から東北地方では飢饉が多いが,これらの記録としては津軽藩の「耳目心通記」は元録8年,会津藩の「天明救荒録」,八戸藩の「天明三癸卯ノ歳大凶作天明四辰ノ歳飢喝聞書」は共に天明3,4年の,秋田藩の「飢歳懐覚録」は天保の夫々の飢饉について,更に南部藩の「飢饉考」は南部藩凶作記の集大成として宝暦5年,天明3年,天保7年の三大飢饉を詳述している.
Copyright © 1983, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.