講座
婦人労働(6)
嶋津 千利世
1
,
原田 二郎
2
1群馬大学教育学部
2杉野学園女子大学短期大学部
pp.42-45
発行日 1972年1月15日
Published Date 1972/1/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1401204409
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女工の反抗と抑圧
前にもふれたように,初期の女工はよく聯合=団結したらしい.というのは,『明治文化全集』第15巻に「工場巡覧記」というのがのつていることはすでにかいたが,そのなかの「鐘が淵紡績会社」の項にも「寄宿舎には…初めは各県別に女工を寄宿せしめたけれども,兎角聯合の弊あればとて今は各県混交(ごたま)ぜに入るることとせり」(253ページ)という記述もあるからである.おなじ書のエー・シビル署名の文中には,鐘紡の女工が教育をうけたこともなく,またうける機会もなかったので「不平苦痛あるも,之を言ひ現はすの道を有せず,獣類の如く無言に之を堪へ忍ぶべきものたるを明にせり.」(289ページ)とあるが,不平不満をいわないのは教育がなかった,という主体的理由ばかりではなく,資本の奸計によって「聯合の弊」をとりさられたからでもある.当時の女工たちには--世間一般にも--まだ身分観念が頭脳に固くはりついており,階級意識はまったくなかった.また,いわゆる国家観念もなく,団結の靱帯となるものは同郷=おくに意識だけだったのである(この当時発行された書物などに○○県人何某などと印刷されたものをしばしばみかける)。したがって各県混交ぜにするということは,同種のものが異国人同志となり,団結どころか日常の話題も共感もなくなってしまったのであろう.
こうして孤立化された女工たちは,たちまち戦闘能力をうしなってしまったのである.
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