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脊椎外科医として29年,内視鏡に関わり始めて早26年が経とうとしていた先日,「Nomade」執筆の依頼を頂戴した.Nomadeは放浪者という意味もあるらしい.
では,後進からたびたび質問される私が脊椎外科で放浪してきた(翻弄されてきた?)経緯と,後進を指導させていただいているときに心がけていること,今後も自身が追求しなければならないことについてお話ししてみたいと思います.私は1992年に近畿大学医学部を卒業しました.当時心肺移植が日本でも再開され始めた時期で,心臓外科への憧れがとても強く,現在のような研修医制度はなかったため最初から和歌山県立医科大学胸部心臓外科教室に入局しました.ただ,現在の前期・後期研修に似た「ローテート制度」があり他科の経験も必要と思い,整形外科を6カ月間研修する機会の許可を教授から得て,整形外科研修をさせていただきました.当時の和歌山医大整形外科はチーム制で診療を行っておられ,私は当時の玉置哲也教授と現教授の山田宏教授がおられた脊椎チームに配属となりました.このとき得られた知識と経験が現在の私の脊椎外科へのイニシエーションとなっています.この経験は「まず興味がもてたことを選択すれば,失敗しても選択せずに後悔するよりよい」とアドバイスする自身の根拠となっています.このとき,素晴らしい結果と患者さんの満足度が高い脊椎外科を学ばせていただいたのですが,心臓外科へ戻ります.その後,いろいろと悩み転科を決心しました.そのとき1つ置いて隣の医局が脳神経外科だったのです.きっかけは当時の脳外科准教授の「面白なさそうにしてるな〜うちに来んか?」でした.当時,人工心肺後に術後脳死になる症例が多く脳外科の先生と接する機会がよくあり,脳神経にも若干の興味がありました.が,学生時代に神経解剖の授業がとても理解できなかった私ですので錐体路・錐体外路の区別もつかぬままの入局です.当時の板倉徹教授から,大学ではつらかろうということで,和歌山労災病院脳神経外科配属となりました.当時,和歌山労災脳外科には大津市民病院脳外科で脊椎外科を学ばれた先生がおられ,このとき和歌山医大整形外科で経験した脊椎外科の素晴らしさが蘇り,サブスペシャリティーとして脊椎外科を選択し現在に至っております.3年間の和歌山労災病院勤務後は大学医局に戻りました.このときが西暦2000年,そう,吉田宗人先生がFoley先生とSmith先生から学ばれた内視鏡下椎間板摘出術(MED)を日本に導入されたときだったのです.興味をもち手術室で見せてもらいましたが,脊椎を内視鏡下に処置する光景がとても難しそうに見えました.ただ「この手技は熟成されれば,光学機器発達に伴いさらに平易かつ安全になるかもしれない」と感じ,自分にも導入することにしました.このときから「ゴールが同じであるなら,すべてにおいて困難な道を選択するべき.後にひらける風景は平易な道を選んだときよりも何倍も素晴らしい.手術も同じであり,困難な手技は結果的に予後が同じであるなら安全に留意して習熟熟成させれば,従来の手術より侵襲度は低くなるので,患者さんに提供できる利益は必ず大きくなる」と指導させていただく根拠となっています.私の持論ですが,次世代に残るよい手術の条件は「いつ,どこで,だれが行っても同じ結果が出せる手術である」にもつながります.
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