わがteen age・8
看護の道を追憶して
須河内 トモヱ
1
1九州大學醫學部附屬病院
pp.50-52
発行日 1951年9月15日
Published Date 1951/9/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661906932
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私は福岡縣遠賀川の上流,犬鳴山の麓の吉川村に生れました。小學校3年生の時まで一度も海を見た事のない程の山ばかりの村で,學校まで1里程もあります。私は小さい時から學校の先生か看護婦になり度いと思つて,ままごと遊びは何時も先生になつたり,或は看護婦になつて,病人にお藥を飲ませる眞似をしていました。愈々學校を卒業してどつちの道に進まうかと迷いましたが,師範學校に行くために福丸養成校に入學いたしました。或る日お友達を見舞う爲に外科の病院を訪れましたが,其處に働いている看護婦さんの凛々しい白衣姿や仕事に何とも云い樣のない強い感動を受けたのです。今日して思えば,まだまだ感受性の強かった10代の心にひびいた一瞬の感動が私の生涯をこの道に決定してしまつた樣です。昭和2年の秋憧憬の看護婦養成所に入學し愈々第一歩をふみ出したわけです。私共は第49回入學でした。九大病院では明治36年京都帝國大學福岡醫科大學になる前身の福岡縣立病院時代より,1年に春秋2回入所養成されていたそうで,その時の取締は吉田とめ看護長で經驗人格共に非常に秀でた方でした。寄宿舍は常に嚴格で取締さんの他に2人の看護長が御出でになって色々私共の世話をされ又嚴しく監督しておられましたので,大變窮屈に思つていました。夜は午後9時に點呼があり看護長が各室を御廻りになつていました。外出は日曜日だけ許され午後5時が門限で何時も遲れない樣に急いで歸つていました。
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