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朝,出勤前にコーヒーを買った。職場近くのお洒落なカフェだ。日課ではない。昨日,保護者とこの店の話をしたことを思い出したのだ。
私は,都心にある自治体の教育センターで就学相談を担当している。発達や行動に課題を持つ子どもの就学に際して,保護者が教育環境や支援を検討したり学校関係者と話し合ったりするための相談だ。
就学というイベントは,保護者が子どもの発達や行動の課題に直面させられる危機的な場面でもある。そのため,一般的な心理臨床面接と同様,就学相談においても子どもの問題行動,家族の問題,保護者の生育歴などが語られる。しかしここでは学派的心理療法に則った面接の展開はない。保護者の心的変容が目的ではないし,厳密な時間枠や治療契約もない。どのケースも3月31日で区切りを迎える。また,制度の説明や事務手続き,見学などの日程調整や同行,学校や園との情報共有といった社会的接点は大きい。
昨日,教育センターのエレベーターホールで声をかけてくれたのは,数年前に担当したサキちゃんの母だった。年長当時,母子分離が難しく,母は疲弊していた。少しでも娘と離れようとたくさんの習い事をさせていたが,発達のゆっくりとしたサキちゃんには負担が大き過ぎたようだった。つい他の子どもと比較してしまう母にとって,それがさらに不安と焦りを増長させていた。
母は,ちょうどカウンセリングの帰りだと教えてくれた。「しかたないんですけど」と前置きしながら,他の子に比べてサキちゃんの“できていないこと”をつらつらと私に伝えようとする。
「今日はサキちゃんは?」私はあえて遮るように言った。
「ひとりで家にいます」
「ひとりでお留守番!」私は少し驚いて見せ,就学相談当時の話をした。片時も母から離れないサキちゃん,登園しぶり,毎日の習い事の送迎。母は,カフェでひとり時間を過ごしている女性を見かけるのが辛いと泣いていた。
私は,「帰りにカフェに寄れますね」とあの店を話題にしたのだ。
「言われてみると,あの頃より少しは成長したところもあるのかな」母はそんなことを言った気がする。
エレベーターが来るまでの短い会話だった。私はそこに,心理臨床的な対応を微かに纏わせたつもりだ。
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