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はじめに
日本のリハビリテーション(以下,リハ)医学の源流の1つに肢体不自由児の療育運動がある.本稿では,療育運動の萌芽期に活躍した3人―田代義徳(1864~1938年)1,2)・柏倉松蔵(1862~1964年)3)・高木憲次(1889~1963年)4)の事績を紹介する.
1919年,東京帝国大学整形外科に田代(55歳)は教授,柏倉(37歳)はマッサージ師,高木(30歳)は助手として在籍していた.ここに至るまでの3人の略歴は下記のとおりである.
田代は栃木県足利郡に生まれ,1888年に帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業して医師となる.ドイツとオーストリアに留学し,1906年に東京帝大に整形外科学講座を開講した.これが日本における最初の整形外科学講座である5).柏倉は山形県上山市に生まれ,1903年に日本体育会体操学校(現在の日本体育大学)を卒業して教師となった.東京と神奈川で教職についた後,岡山県師範学校に赴任した.岡山では按摩術を習得し,さらに医療体操という概念に惹かれるようになる.1918年にその権威であった田代を訪問し,研究生として学ぶことになり,翌年にはマッサージ師として東京帝大雇となった.高木は東京池之端に生まれた.東京帝大の学生時代に田代を訪問する機会があり,整形外科学に関心を持つ.1915年12月に卒業して医師となり,翌年1月に田代の教室に入局した.
1906年以前には形態異常・運動器障害を扱う医学は日本に導入されていなかった.また,当時の小学校令では,肢体不自由児の保護者は就学させる義務を免じられていた.このため肢体不自由児の多くは教育を受ける機会がなく,「読み書きそろばん」もできず,厄介者として暮らすしかない人が多かった.田代による整形外科学の導入は,肢体不自由児(者)の存在とその実態を認識させるようになった.田代の逸話に「見せ物小屋に行って,治療できる患者が見せ物にされている現状を見ておくように」と述べ,医局員に活を入れたというものがある.
1919年当時,田代・柏倉・高木の3人が抱いた夢は「手足不自由な児童に自活の道を与えたい」というものであった.治療にとどまらず,自活の道を与えることを目指したことは卓見である.それには治療と教育が必要であるとする点は共通していたが,具体的な目標の違いから,異なる道を歩むことになる.田代は肢体不自由児のための公的な学校の設立を目指し,柏倉は肢体不自由児に教育と理学療法を施す学園を自ら開設し,高木は医療を主体とする肢体不自由児施設の設立へと向かう.以下では3人の動きを順を追って辿ってみることにする.なお,概略は年表(表)にまとめた5,6).
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