学会記
国際生化学会印象記
石川 晉次
1
1東京大学医学部生化学教室
pp.297-298
発行日 1961年12月15日
Published Date 1961/12/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.2425906212
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モスコー大学正面のレーニン丘の上から,一つ一つが高さ150m以上もある尖塔をちりばめたモスコーの町がマッチ箱をかさねた様な西側の建築を見なれた私の目には,ロシア人たちが,西の連中とは別種のものを表現しようとつとめている一つのあらわれのように思われた。私はその尖塔の一つのウクライナホテルから,もう一つの尖塔である,第5回国際生化学会会場のモスコー大学へ一万人をこえる参会者の一人として一週間かよつた。もともと帰国の中途でよつてやれと思いつき直前になつて手続をしたことではあり,演題をだしている訳でもなく,ひどく無責任な立場にあつたし,その上こう会議そのものがフクレあがつてしまつては,全体の印象なんて人によつてひどくちがうであろう。日本からも何と50人をこえる参会者がいたが,オパーリンも開会式の挨拶でいつていたことだが,こんどの会議は私自身もふくめて若い生化学者たち特にアメリカの若い連中が多数参加していたことは一つの特徴だつたと思う。アメリカからの参加者の大きな部分は,半分ぐらいは生化学そのものより,ソ連みたさに出かけて来たといつて言いすぎでなさそうだつた。オパーリンは会議がそれらの若い連中に将来のためのよい刺戟となることを衷心,希望して開会のことばをむすんだがこの会議が学問的にそれら"生化学者大衆"にどんな効果をもつたかは私の推測のラチ外である。
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