連載 「ゼロ」からはじめるオープンダイアローグ・7
なぜ精神分析は「過程」を語れないのか
斎藤 環
1
1筑波大学医学医療系社会精神保健学
pp.492-497
発行日 2021年9月15日
Published Date 2021/9/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1689200932
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前回は「否定神学」としての精神分析がどのように批判され、またその批判がどのような影響をもたらしたかについて検討しました。だいぶ抽象的な話が続いてそろそろうんざりかもしれませんが、もうちょっとだけおつきあいください。
そのときも述べましたが、あらゆる「理論」は否定神学的であるとも言えます。なぜか。森羅万象を説明し尽くすような究極理論は存在しません。なぜなら、どんな理論にも「視座」というものがあるからです。視座や視点はそのまま理論の限界にもなります。遠近法で言えば消失点ですね。消失点は常に一つだけだからこそ、私たちは自分が見ているものを立体的に理解できる。多視点に見えるキュビズムの絵画を「理解」できるのは、それは通常の遠近法の土台の上で成り立っているからで、最初から多視点では対象の理解すらできません。
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