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はじめに
水俣病が公式確認されて今年で56年目を迎えた。「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」(以下,特措法)による未認定患者救済の締切が7月31日と決められ,水俣病問題が終結させられようとしている。しかし,これで本当に終わるのであろうか。実は,未認定患者はもちろん,すでに公害健康被害の補償などに関する法律(以下,公健法)によって認定されている水俣病患者にも多くの問題が残されている。
熊本日日新聞2012(平成24)年5月1日朝刊に『「5・1」を考える―水俣病公式確認56年』という,故原田正純氏の寄稿があるが,その冒頭には以下のように書かれている。
今年も5月1日がやってきた。(中略)この日が水俣病公式確認の日であることは参列者の多くが知っているだろうが,国道3号線のすぐ下に,水俣病公式確認の契機となった第1号患者が,ひっそりと,生き続けていることを何人が意識しているだろうか。3号線からわずか100メートルも離れていない家に半世紀以上も密やかに,病魔との孤独な闘いを続けているのである。(中略)3歳で発病した実子さんには1973年に原告側が勝訴した1次訴訟を通して一時金1800万円と月々の手当が出ているが,問題が終わったものとして世間から注目されることも少なくなった。5月1日の慰霊式の日にさえ訪れる者もなく,マスコミに取り上げられることもない。1次訴訟のあの時の裁判原告たちは「補償金をもらった」から問題は終わったものとして忘却されている。
水俣病患者は,公害被害者としての補償体系と制度のなかで,被害―加害の民事的な関係に置かれることから,社会福祉的な施策の対象とはなかなかなりにくく,患者たちにも支援者たちにも「患者が地域で自立した生活を送る」という考えがきわめて希薄であった。そもそも,何が福祉的な援助の課題であるかさえ問われていなかったと言える。
水俣病には根本的な治療方法がなく,対症療法しかない。水俣病患者たちにとっては,日常生活を送るなかに水俣病があり,水俣病とともに生きている。療養のために一定期間日常生活から離れるのではなく,水俣病によって受けた障害とともに生きているのである。
この,疾病としての水俣病から障害をもつ水俣病被害者への架橋となるものが何であるかを知るには,水俣病被害者たちがいかに行政によって分断されてきたかを見る必要がある。
そこで,水俣病患者の生活を水俣病事件史とともに見ることにより,被害が社会的意味をもつにもかかわらず,被害者たちが医学モデルのなかに閉じ込められるようなシステムにとどめられていることを検証し,その点をふまえて,社会モデルから見た水俣病被害者とは何かを提起するヒントを得たい。
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