特集 東京都の看護婦養成対策
背景/特集の構成
pp.2-3
発行日 1971年10月25日
Published Date 1971/10/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663908961
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昭和40年5月に人事院判定が出された.全日本国立医療労働組合(全医労)の「月6日,2人夜勤」の要求に対して「月8日,2人夜勤」という判定であった.このころ,日本の社会,経済は高度経済成長を経てよくやく安定期をむかえた.こうしたなかにあって,国民の関心は社会保障の充実や健康問題へとむかっていった.全医労の要求は,苛酷な労働条件を改善してほしい,ひいてはそれが看護・医療の真の向上につながるというものであったが,その後に続く全国的な激動を予想されるものであった.
そして2年.昭和42年3月に,新潟県職労医療部会を中心にしたいわゆる「夜勤制限斗争」がおこるのである.医療をささえる原点からの告発はまたたくまに全国に波及していった.しかし,いかに増員の協定化を勝ちとっても実際には人手がたりないという現実が大きく立ちふさがっていた.
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