私の病棟日誌・5
辺境から見る
日下 隼人
1
1武蔵野赤十字病院小児科
pp.517-520
発行日 1977年8月25日
Published Date 1977/8/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663907128
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どうも私は最近,京都の言葉やアクセントが急に出だしてきた.‘どうも’というようなことではなくて,私は京都育ちであるし,このところ神戸出身の1君と一緒に仕事をしているからである.こうして久しぶりに遣いだしてみると,関西の言葉は確かにしっくりくるようである.それは私が子供のころから遣い慣れて,ふるさとの言葉であるからということはもちろんだけれども,‘標準語’よりもずっと生活感覚を反映していて,だから言葉のつじつま・論理の整合さ(ということは,つじつま・論理の整合さ(ということは,つじつまさえあえばどうにでも変わってしまうような)で成りたつというのでなく,自分の実感それも自分の存在の底にある生きるよすがみたいな感覚,そしてそれはちょっとやそっとのことでは動かされないぞ,みたいなしたたかさ,そういうものを包みこんだ言葉のように思われる.
そういう実感レベル(これはいわゆる実感信仰などというような実感というより,‘俺は俺だ.こういうものなんだぞ’という自己主張みたいな,つまり存在感みたいな意味においてなのだが)での言葉は,確かに東京に来てからこのかた標準語の世界では,私にはどうもつかみえなかった.それは(こういう区分けは決して好ましくないのだけれど)関東と関西との風土的な違い,とでもいうようなものでさえあるように思えてしかたがない(確かに関西の人間同士に存在する共同感覚みたいなものはあるようなのだ).
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