- 有料閲覧
- 文献概要
「トウンダは車内の通路に立って煙草を吸っていた.喫煙厳禁の掲示板が目に入らなかった.意に添わないものは人間だれでも目に入らないものだ.(J.ロート『果てしなき逃走』)」.見ることは主観的な行為であるが,誰にでも言葉どおりにできるとはかぎらない.人はありのままに見ようともしない.物はありのままに見えるのではない.誰でも見るけれども,真にものを見ることのできる者はあまりいない.何をどのように見るかは各人各様,各人の能力に応じる.見る人に見えるように,その人の器量に合ったようにしか見えない.また,知らずしらずのうちに色眼鏡をかけて,その色を通して見ている.ここに診断という技術が必然的にもつ落とし穴がある.個人差を排して,なにものにも捉われない眼で,色眼鏡に被われない眼で見ることができるよう努力する.見視観といって,身体のどのレベル(眼,脳,心)で見るかが問われる.こちらに見る主体(観)があり,むこうに見られるものとしての客体(観)がある.主客分離した立場から「見る」が成り立つが,一流の診断家は自己を無にして物になり切る瞬間がある.それを「ものになりきって見る(芭蕉)」という.
見る方法には二つある.全体を満遍なく見る「見」と,特定の部分(要素)を集中的に見る「視」.そして,それらを心が統合してみる「観」.全体と部分は循環している.全体を知るためには部分が分からねばならず,部分を知るためには全体が分からねばならない.内視鏡検査の基本も「全体を見ると部分を見る」の繰り返しである.片方に傾くのは十全の検査とはいえない.気になる部分に注意がいきすぎると全体は疎かになり,全体をよく見ようとすると手薄になる局所ができる.
Copyright © 2013, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.