私の看護教育論
夜間の看護研究科・保健婦科・助産婦科を
稲本 晃
1
1京都大学医学部付属看護学校
pp.40-44
発行日 1965年6月1日
Published Date 1965/6/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663905466
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まえがき
昭和39年3月,筆者は,はからずも京都大学の看護学校長を命ぜられ,その1ヵ月後の4月にアメリカUCLAのPostgraduate orientalextension courseのNurse group約30名を本校に迎えることになった。
そのときの討論会で,UCLAの看護学校長Hassenplug夫人は,開口一番,「わたくしはこの看護学校長のあなたを,個人的には信頼するが,公的には信用しない。なぜならばあなたが医師であるからだ。われわれはアメリカで長年の間,看護学教育を医師の手から独立さすために戦って来て,今それを勝ちとったのだ。」と得意のユーモアまじりに一発くらわせておいて,また「今日本へ来て,看護婦問題の実情,たとえばその不足問題,あるいは労働過重,待遇の問題などをきいてみると,わたくしどもがアメリカで直面しているのと全く同じなやみをもっておられることがわかった。それで日本の看護協会から申しいでがあれば,物心両方面の協力援助を惜しまないつもりだ」と語っていた。
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