連載 往復書簡 東京と小樽を結んで・22
小樽―わが街
森 博子
1
1市立小樽病院高等看護学院
pp.726-729
発行日 1992年10月25日
Published Date 1992/10/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663900460
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初夏の頃,小樽市恒例の「伊藤整文学賞」が発表されました.この時期,私は何故か伊藤整と同じ時代を,小樽で生きた小林多喜二を想い出します.小樽が誇る2人の文学者「多喜二と整」は,まるで「影と光」のように対称的な生き方をしたのではないかと思えてなりません.私が初めて多喜二の存在を意識したのは,高校生の時図書室で偶然手にした「小林多喜二全集」の中の一枚の写真をみた時です.その時一瞬何が写っているのかよくわかりませんでした.でも目を凝らして見ると,それはうつ伏せになった多喜二の全裸死体でした.丸太のように腫れ上った太腿,その全身は黒く変色し,わずかに横顔をのぞかせていました.私は驚いて本を閉じ周囲をキョロキョロ見渡し,誰もいないことを確め写真をみたものでした.まるで見てはいけないものを見たような想いだったのです.その後読んだ「蟹工船」の強烈な印象も忘れることができません.蟹を追って日本海を北上し,オホーツク海から蟹罐工場のあるカムチャツカまで漁を続ける漁夫達の,苛酷な労働や悲惨,人間として扱われないことへの怒りと悲しみに圧倒されたことを想い出します.多喜二がプロレタリア文学者であったこと,共産党員であったこと,警察の特高の拷問により虐殺され29歳4か月でその生を終えたことは,まるで甘い蜜のように17歳の私の心をひきつけました.でもそんな心の昂揚も長続きせず,多喜二は私にとって遠い存在になっていました.
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