沖繩の公看活動 第11回
マンモス保健所
浦野 元幸
pp.74-75
発行日 1970年3月10日
Published Date 1970/3/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662204637
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那覇ハイバイ
前日まで晴天に恵まれていたのがくずれて横なぐりの降りである。日本政府派還の結核検診班最後の検診日であった。スタッフは中川喜幹(当時本郷保健所長),村田尚(当時尾鷲保健所長)の両先生,阿部正達レントゲン技師(当時三重県衛生部)。場所は那覇で最難といわれる壼屋地区。3校区,地区組織崩壊,階層職業も混在。那覇ハイバイ—那覇の人は自分勝手なバラバラの生活をする種旅—の代表的地区である。
坦当公看は吉川千恵子君。当時新婚のホヤホヤ。該当地区を私と2人で何度も歩き,模合(たのもし講)をさがすいっぽう,知人,医療関係者,教育関係者,在宅患者,そのほか適当な店を名簿にして地図に書きこむ。1つの路地を利用する世帯を1集団とみなしてそのなかに代表的な1軒を選んで2人して挨拶にいく。事情を説明して向う3軒両隣りの10数軒の主婦の人集めと部屋をかしてもらうよう依頼する。夜となく昼となく2時間単位にしきって保健懇談会を行ない地区に入りこんだのである。全世帯もれなく接触したかったが現実には2/3を目標にしていた。はじめ数回は不審と迷惑顔を熱意で拝み倒すというやり方であったが回を重ねるにつれ,われわれもお手伝いしましょう,どこへいって下さい人集めしておきますから,こっちへきて下さいということになり,はじめの吉川調査も無駄になる結末であった。準備期間を入れ約3カ月,2人共この地区へ全力をそそいだので雨はうらめしかった。
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