わたしの保健指導
ついに亡くなった精薄の子
篠原 親子
1
1青梅市役所保健課
pp.65-67
発行日 1966年6月10日
Published Date 1966/6/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662203677
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昭和33年10月25日,病院経験5年,しかもそのほとんどを精神病院で過ごしてきた私が,市立病院に求職にきて,総婦長から紹介されて当市の保険課長(現助役)に面接"青梅は水害はなし東京のように水の心配はなく風光明美なよい所だよ,だまされたと思って働いてみないかね"病院に未練のある私に,どうしてもやれなかったら病院に移ってもいいからということで,私の保健婦としての第一歩の始まった日である.青梅市は東京都心部から西へ50キロ,東京駅から電車で1時間半東は瑞穂町,羽村町,西は奥多摩町,南は秋多町,日の出村,北は埼玉県飯能市にそれぞれ境を接し面積,104,01平方キロ,東西17,2キロ,南北9キロの地域を有している.39年10月1日現在,人口59,846人,14,167世帯,国民健康保険被保険者数23,540人,6,030世帯,農業が総人口の約30%弱,他が商業,工業である.
西も東もわからない私は,なにを要求されているのかも知ることができなかった.先輩,保健所保健婦と協議の結果,南小曾木地区(人口3,657人,664世帯)と旧本庁地区(人口16,342人,3,549世帯)の1/2が私の受け持ち地区として管理するようにいわれ,当時は,ただ毎日が妊娠訪問,乳幼児訪問指導,結核の経過観察に,与えられた地区の管理に,すべてをつくした.
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