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岩手県の保健婦活動—その歴史と背景を中心として
相磯 冨士雄
1
,
前田 信雄
2
1宮城県気仙沼保健所
2東北大学医学部病院管理学教室
pp.55-59
発行日 1963年8月10日
Published Date 1963/8/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662202905
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めばえ
昭和初頭の農業恐慌,それに加えての6年・9年の東北・北海道の大凶作は,東北農民を塗炭の苦しみにおとしいれた.病人と乳児とにしわよせされてゆく悲惨な状況をみて,当時の岩手医専小児科教授根本四郎氏は,意を決し,日曜目ごとに盛岡市郊外の電灯もない一無医村をおとずれた.雑のうに診療材料を入れて部落回りをはじめたのである.多くの村民たちは,医師と産婆とをはじめてみた.医療のありがたさをはじめて知り,やがて村民の強い要望は産婆を村に駐在させるに至った.かの女の仕事は,助産,母子検診,その指導訪問,衣食住の指導,必要に応じてときには医師の指示による投薬を行なった.その結果,乳児の死亡率はかなり減った.この駐在産婆の活動は国保保健婦ができるまで続いた.これが岩手県独自の保健婦的活動のはじまりであろう.根本教授もまた,かの女たちを厚生婦,あるいは保健婦と呼んだ(これは疲へいした東北農村の救済事業団体である東北更新会の事業の一つであった).
いっぽう,昭和7年に国の救療事業の一環として県の社会課に産婆の資格ある人がはいり,医師薬剤師とともに無医地区の巡回診療を行ない,保健婦的な仕事を行なった.しかしこれもあくまで救療であって発展はなかった.
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