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私は何故保健婦になったか
加藤 ハマ子
1
1宮城県登米保健所
pp.59-61
発行日 1960年3月10日
Published Date 1960/3/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662202047
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保健婦になつた動機,なる為の準備,夢や喜び悲しみ苦労等を含めて書いて戴きたいとのお手紙を受け取つたが,東北人特有の内向的な性格が自分の経験を書く事にブレーキをかけ,再三,迷つたが,私の恩師である大坂先生(厚生省保険局医療課)から,私の過去を聞いての依頼とあつて筆を執つてみようと思つた.依頼文の追伸で強調されている点は看護婦になつて7万円貯め,保健婦学校に入つたとか--この点を詳しくとあるが,それは私が保健婦になる動機の何ものでもなく,単なる手段でしかないのであまり詳しく述べない.
私は何故保健婦になろうとしたか,看護学校2年の時,産婦人科実習があり,そこで2等室と3等室のフライの妊婦(入院治療費等不要の患者)が同時に出産した。赤ちやん達は自分の生れ出たのを知らせるかの如く大きな初声をあげていた,子供の好きな私は沐浴室にかけつけた,まるまると肥つた男の子,どつちが2等室かフライの子かてんで見当がつかない.赤ちやん達は自由に手足を動かし,元気一杯与えられた生命に喜びを感じているかの様な動きを見せていた.やがて全ての処置が終り裸の世界が過ぎて衣裳を着せる時になりはつと,大きな変化に驚いた.一方の子は真白な着物,もう一方の子は着物も無く,黄ばんだ布に包まれた.もう2人の子供は平等ではない,親の力で将来を決定されてしまつたのだ.この黄ばんだ布に包まれた子が私を保健婦にさせたのである.
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