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私は何故保健婦になったか
遊佐 徳子
1
1現在公衆衛生院
pp.61-62
発行日 1960年3月10日
Published Date 1960/3/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662202048
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「実際はもつとたどたどしくて,盲滅法なものでしたろうに」.時の流れは,幼くつたないものを滑らかな理屈の通つた形に整えてしまう様です.私達は幾度かデッサンをする内に白いカンバスに向います.始めは薄い線がひかれ描かれ,段々これと思う構図の上に絵具が塗られて行く.白い下地が油を通して見えていた画面が,筆の重なる毎にはつきりとした意図が,見る者だけでなく,描く者自身にも判つて来ます.
私が青山学院短大を卒業して聖路加女専に入りたいと思つたのは,助産婦の資格を得たい為でした.今から考えると,実に我ながらとつぴな事を考えたものだと思います.第一助産婦とは何んであるかを知らなかつたのですから.YWCAのメンバーとして,YMCAの人達と毎週金曜の夜,ささやかな奉仕をしていました.所は上野の浮浪児収容所です.相手にとつては,どれほどのものであつたか判らないけれど,私達にとつては,小さくない経験でした.世の中も昭和26,7年の頃ですから,今ほど落着いてはおりません.青山学院の静かな明るい宗教的訓練の中から,私はどうしても,このまま自分だけの幸せにひたつている事が出来ませんでした.決心した道もありました.しかし勇気と努力の足りない私には,もつとやさしい道を必要としました.私は突然技術を持つて,何か役に立つ生き方をしたいと思いました.こんな動機で聖路加女専に入り,看護婦としての勉強を始めたわけですが,助産婦になる気持は卒業近く迄持つていました.
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