職場報告
三菱美唄鑛業所より
關 爲藏
1
1三菱美唄礦業所衞生管理課
pp.53-56
発行日 1951年2月10日
Published Date 1951/2/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662200041
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昭和12年9月5日保健所法が施行され,昭和17年に保健婦令が制定されて以來日本にも保健婦が誕生し,日本國民の保健指導の者めに彼の女等の涙ぐましい活動が展開された。其の間保健婦諸姉が歩んで來た道は誠に多難を極めたものである。私も其の頃から實際に保健指導に關係して來た者として諸姉の雄々しい健闘に對して心から敬意を表するものである。
今日顧て保健婦諸姉が何故苦難の道を歩まなければならなかつたかを檢討して見るならば,保健婦の仕事其のもがなまやさしいものではない上に,資格獲得の當初に於ては,地方長官が認める特定の條件を持つた看護婦が保健婦の免許証を與えられたのである。一方保健婦を直接指導すべき立場にあつた醫師が(一部ではあつたが)治療醫學萬能の狹い見界から保健婦活動を理解し得なかつた許りか,餘計なおせつかいとして笑殺する場合をさえ見て來た。之では保健婦として活動のしようもないわけである。北海道では昭和19年から短期保健婦養成所が開設されて速成保健婦が多數世に送られたのである。從つて實力が伴つていなかつた事は否定出來ない。其の上折角希望に燃えて世に出た保健婦にとつて,社會は餘りにも無關心であり,彼の女等を遇するに頗る冷淡であつた。保健婦自體も自信がなくまた良き指導者なきままに折角市町村役場に職を得ても,いつの間にが事務員化するか無醫村の所謂代診化して眞の保健婦活動から逸脱して了つた者がかなりあつた。
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