プロフィル
〈平久江照子〉四十歳で進学コースに学ぶ—「新しい知識が入ってくるのは、ほんとに楽しいことですね」
吉
pp.1065
発行日 1982年9月1日
Published Date 1982/9/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661919665
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生家が農家で、兄弟も多く、中学校を卒業しても近くに高校はなく、下宿して通うだけの余裕はなかった。そこで父親が、「勉強しながら生活できる方法」はないかと探した結果、看護婦になる道がみつかった.看護学校では食費、寮費、授業料が無料だったため、小遣い銭だけあれば充分だった.「その当時、個人医院などにいた人は家の手伝いなどさせられていましたから、かなり恵まれていた方じゃないでしょうか」
卒後、准看で働いていた病院の総婦長から幾度となく進学コースへの道を勧められたが、英語が全くといっていいほど苦手で、到底ついていけないと思い込んでいたため断わってしまった.「田舎ては過疎のため、三つの中学校を一つに統合したので、教室は大人数、後ろの方の席では先生の声も聞こえず、やりたくなければ適当にやっていればよく、キチンとした英語はやらなかったんです」
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