文学
「私小説」的なまよい—石坂洋次郎の「水で書かれた物語」
平山 城児
1
1立教大学文学部
pp.106-107
発行日 1965年8月1日
Published Date 1965/8/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661917435
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ジョン・キーツの墓碑銘から
「水で書かれた物語」──これがこれから問題にしようとする,石坂洋次郎の小説の題名である。変わった題名である。なぜか人をひきつける題名である。それがどういう由来をもつのかは,作者みずからが,作品の初めの部分に記している。イギリスの詩人ジョン・キーツの墓碑銘に,「水にてその名を記されし者ここに眠る」とあり,それから取ったのだと書いてある。水で書いたいたずら書きは,乾けばすぐ消えてしまう。そのようにはかない一生を送るものは無数にいる。ほとんどの人間は,そのように,歴史の一頁に名前ものこさずに,生まれ,死んで行く。そのような無数の人々の中の一人として,ある,異常な体験をした人間を主人公にして書かれている。ともかく,この題名にまつわる,作者の考え方は,題名と同じくらい,私たちの心をひきつける,一種の力をもっている。世の中の人間のうちほとんどの人間は,「水のように精分のうすい生き方をして」そして消え去ってしまうが,「ごく少数の人々だけが,天才だったり,ひた向きだったり,とびきりに腹黒かったりしたおかげで,墨汁やマジック・インクで名前を記されて,後世までその名を残すようになるのだ」と書いてある。そして,自分は,そんな名を残すよりは,「今日あって明日はない作品を書きまくり」気軽に生きて行きたい──そう書いている。
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