患者のそばでまなぶ・3
年より病人と画一的看護
小林 富美栄
pp.61
発行日 1962年9月15日
Published Date 1962/9/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661911730
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父は70余年すみなれた家で落葉がしきつめた庭に陽差しが明るいのをよろこび,しぐれる日は淋しがって亡くなった。宿阿の心臓病で病弱だったのをわがままいっぱいの養生をして,静かな表情で死亡をさとりながら逝ったのであるが,長年その世話をし,何にもたえしのんで,わがままの一生をすごした母は,1年おくれた同じ月に他国の空でなくなった。母の病床に訪れるたびに思ったのは,何というわびしさだろうか,ということである。この老人がどんな一生を過ごしてきたかをしらない人びとの間で,遠慮ぶかい,しかし忍従して生きてきただけのしぶとさをもっていた。その心根を知らない人びとの中で,しかも生まれて以来はじめてねたというベットの毎日は,決して住心地よいものではなかったと思う。毎日生活してきた家を,どんなに恋しかったか。高々と笑って話し合えた近所の百姓の小母さん連がなつかしかったことであろう。田舎ことばが通じない都会生活だけでもストレスを感ずるものである。痛さをがまんする母が,せいいっぱい上品な表現をしようとしてしかめていた顔を思うといとしい。こんなによく知っている患者を私は看護したいと思った。いや,患者ひとりひとりについてこうまで知り得たらと思った。
久しぶりにたずねた病室で死期が急速に近づいていることを私は感じた。母はしきりに田舎の家へ帰りたいと赤ん坊がむずかるようにだだをこねた。
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