とびら
勇気
金子 光
pp.1
発行日 1962年9月15日
Published Date 1962/9/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661911716
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キリストが罪人として刑をうけるために,自分がつけられる重い十字架を負って,ゴルゴタの丘に向かって狭い街の道を歩いておられた時,頭にのせられた茨の冠に傷けられて血が汗とまみれて顔をおおい,重い十字架によろめきよろめき歩をすすめられる様を,多勢の群衆が人垣をつくって眺め見送っていた。その人々の中には,「ああお気の毒に」と思っていたものも多かったと思うのに,いかめしい役人たちの態度とその場のふんいきにおされて,ただ息をのんで,じっと涙ながらに見送っていたらしい。その時,突然,人垣の中からひとりの若い女性がとび出して来て,手に持った布でキリストの血と汗にまみれた顔を静かにぬぐってあげた。もちろん,たちまち役人に追いはらわれてしまったことはいうまでもない。事実はこれだけです。しゅん間の出来事なのですけれど,私はいつもこの若い婦人の勇気ある行為に心から感服して何度か思いおこしているのです。何と勇気のある人であろうか,皆が同じ思いでいる時にすすんで代表の形でことを行うのは勇気とはいえません。しかし,周囲が圧倒的にある一つの空気にみちみちている時に,あえて,その反対の行動や発言を行う力,正しいことのためにやぶさかでないその勇気には,真に敬服の他はありません。それは信仰でしょうか,信念でしょうか,あるいはまた,実に純すいにすなおな,ただひたむきに「おいたわしい」と思ったからの行動であったかそれはわかりません。
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