- 文献概要
「一寸その文鎮かして下さい」と隣の机の人がいう。「どうぞ,でもあんまり重くないのよ」といつて渡した。「いえ,重くなくつていいんです。その丸みがほしいんです」というその人は,みていると,ペンで書いた字をナイフの先でこそぎ落していたらしいその上を,今の私の文鎮の背中のレンズの丸みみたいになつているところでゴリゴリこすつていた。成程,ガラスの丸みの滑らかさを利用して,ナイフでけずつた紙面のザラザラを落付かせ,同時に用紙をこすつてかため,其の上からもう一度ペンで書くことが出来るようにしているのであつた。物の使い様というものはあるものだなあと感心した。文鎮というものは,紙などが,動くのをおさえたり,風でとばされるのを防ぐために使われる重みを利用するものであるのに,図案かきの手伝いをしたり,紙面の調整につとめたりするものかと,つくづく返されて来た小さな円い文鎮を見直した。思えばこの文鎮は私は,小学校の2年生に進学し,始めて筆で字を書くお習字を学ぶようになつた時に,母が青山通りの当時有名な文具店であつた「松本」という店で買つて来て下さつたもので,爾来,ずつと私の机の上にのつて今日まで,何十年という間,忠実につとめてくれている。よくなくならなかつたものだと,しみじみ思うが,私はこれが大好きだつたので,いつも大事に取扱つていたからであろう。
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