連載 考える
看護すること—てつがく自由自在【実況中継編】・8
タマキはじめての大学—「分かる」って,分かる?
満田 愛
1
1大阪大学大学院臨床哲学研究室
pp.756-759
発行日 1999年8月1日
Published Date 1999/8/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661905904
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これまで鷲田清一先生といっしょに「看護すること」について「分かる」「待つ」「聴く」「逢う」という4つのテーマで考えてきました.どれもふだん日常にもまれているなかでは立ち止まって考える機会が少ないけれど,じつはひとりの人間として生きていくうえでけっして蔑ろにできないことばかりです.看護という,その仕事がひとりのひとの「生きる」ことの根元にかかわるということをおもうと,これらのテーマについてこれからもうしばらくのあいだ,具体的な議論のなかでタマキたちとともに考えていきたいとおもいます.
これまではタマキとトオルとの会話を通して,とくに現象学の切り口で鷲田先生の眼から「看護すること」についてみてきました.それはあるひとつの視点であり,けっしてこれが唯一絶対の理念,ということではありません.また,「看護すること」について語る際,実際に看護に携わっている方たちの声を欠かすことはできないということも忘れてはならないと考えてきました.
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