招待席
私たちを突き動かすのは“いのち”―水俣病公式確認50年にあたって
上野 恵子
1,2
,
本誌編集室
Ueno Keiko
1,2
1前水俣協立病院
2NPO みなまた
pp.1085-1089
発行日 2006年12月1日
Published Date 2006/12/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661100676
- 有料閲覧
- 文献概要
- 1ページ目
――1956(昭和31)年5月1日,水俣病が「原因不明の神経障害」として水俣保健所に初めて公式に報告されました.それから50年,上野さんは長年にわたって水俣病患者の看護に力を尽くされてきました.水俣病に直面した看護師たちはそのときどう行動したのか――.まず,上野さんが水俣病にかかわるようになった経緯からお聞かせください.
上野 私ははじめ,水俣市のリハビリテーション病院に勤めていました.学生の時にこの病院を見学し,患者の立場に立ったバリアフリーの設備のありようなどに感銘を受け,卒業してすぐに就職したのです.1968(昭和43)年のことでした.
ここには,脊損や頸損の重度身体障害をもった方や脳性小児麻痺の方もいらっしゃいました.水俣病の患者さんはその一部という印象で,ことさらに水俣病患者の看護をしようというふうには思っていなかったというのが正直なところです.
その翌年に水俣病第一次訴訟が始まり(水俣病の原因となったメチル水銀を排出したチッソ株式会社の企業責任を問い,水俣病認定患者らが損害賠償を求めた裁判.その後も数々の裁判が続く),その支援をしていた市の職員や労働組合から要請があって,看護職としてお手伝いすることになりました.これは,自分の休暇を使ってやっていたことです.理解とカンパを求めて訴えてまわる患者さんたちに付き添っていったりしましたね.このときに患者さんたちのお話をよくうかがったものですが,それでもまだ水俣病の現実をよくはわかっていなかったと思います.
Copyright © 2006, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.