ある病理学者の回想
私と水俣病
武内 忠男
1
1熊大病理
pp.127-131
発行日 1972年1月10日
Published Date 1972/1/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1402203982
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5年に1つ山を越えてきた
ここ数年来のように公害が一般に理解され,そのために健康を侵害された人びとが救助されるべきだというきわめて当りまえのことが,すべての人びとに常識になってくると,今まで常に何かの圧迫感なしにはやれなかったような研究がやれるようになってくる.水俣を中心とする不知火海一帯のまだなされていない疫学的調査もやれるようになるし,社会的要請や地域社会の諸諸の条件で,表面に出ていなかった水俣病患者が現われてくる.それは初期にみられた水俣病の特異の症状のままの形で現われるのもあるし,変型した病型あるいは合併症など10数年の経過を伴って,きわめて多彩な形をとってくる,それらは単なるメチル水銀中毒症ではなく,それにさまざまなプラスが伴う.それらの詳細はまだ未知な分野が多い.私どもが第二次水俣病研究班を組織して,これらの医学的研究を進めるようになったゆえんのものも1つにはそこにある.
とは言うものの,これらの研究がなんらの抵抗もなしに行なわれるとは,現時点でもなお言えない,しかし今から5年先のことを考えてみれば,今の心配は杞憂ということになってしまうだろう.なぜなら,私どもが水俣病の研究を始めて,5年毎に1つの山を越えてきた感があるからであり,最初のあらゆる抵抗や中傷も5年後には,科学的にまた医学的に出された正しいものは残り,それらは尊重されていくということがわかったからである.
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