随筆
数寄屋橋雑感
pp.48
発行日 1959年8月1日
Published Date 1959/8/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611201740
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永井荷風が死んで早くも2カ月,死亡当時とやかくと騒ぎたてたジャーナリズムも,今はすつかり沈黙してしまつて,結局,彼の存在意義は文学史の墓碑名のなかに名声をとどめることとなつたが,聞くところによると,荷風の死後,彼の拓本をとる人が,ひじように多かつたということである.拓本というのは,石碑などに刻まれている文字その他を,紙に写しとつたものである.心から彼を敬愛している人がそうしたのか,それとも,死んでから彼の字に値うちがでたと計算した商魂たくましいヤカラがそうしたのか,そのへんは知らない.
先日,所用があつて銀座にでかけ,数寄屋橋のわきを通りすぎるとそこに黒山の人だかりがあつた.数寄屋橋といつても現在では橋も川もなく,中空には高速度道路が架けわたされ,道路の下にはデパートや名店街がならび,地下にも高価な物品や飲食物をあきなう店がならんでいる.その人だかりを覗いてみると落下傘スタイルのスカートにポニーテールの髪をした22〜3歳の娘が,人だかりにも怖じず,一心に拓本をとつていた.そこはかつて橋のたもとに当り,今ではささやかな広場になつている.広場に石碑が建つているのだつた.その娘は石碑の面に大判の白紙をあてがつて四隅をセロテープでおさえ,木炭を使つて紙の上を万遍なくこすつていた.こするにしたがつて,石碑に刻まれている文字の部分だけが白抜きに浮きだしてきた.
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