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「あ,先生,ちょっと.」いつものように,朝の回診途中.大部屋のカーテンを閉めて部屋を出ようとしたときに声をかけられた.おおよそ退院の予定や退院後の生活準備も決まっており,今日も特に不調はないことは先ほど聞いたばかりだ.このようなとき,私はちょっと身構えてしまう.構えが想定する場面はふたつあり,ひとつはこれまでにあまり表面化していない何かの問題点があらわれること.体調の不良や症状の心配,といったこともあるし,よくなるまで帰ってくるなと家族に言われたとか,帰るつもりだったアパートの大家さんに退去するようにいわれたとか,多くの場合あまり良い話ではない.私の中では,まずは傾聴という気持ちに外来の開始時間がせまり,最初の対応をする必要がでてくる.不思議なことに,うまくいきました,というような話はこのようなタイミングででてくることはあまりないように思う.そしてもうひとつは,封筒などに包まれたお礼などを渡されようとする場合だ.
「なんでしょう.」もう一度カーテンを開ける.その患者さんは右の片麻痺はよく改善して,失語と失認が一部残存していた.右手には何やら茶色の四角いものを持っている.明らかに封筒ではないので私はちょっとほっとしてベッドサイドに近づく.第二の場面への懸念から,封筒がないと確認してから,パーソナルスペースを縮めるようにしているのだ.このごろはだいぶそういうことはなくなったし,どちらかといえば本人よりも家族さんのことのほうが多いのではあるが,ありがたい意志だけをいただいて用意されたものを固辞することを,お気持ちを損じないように隣に他の患者さんもいる大部屋で上手にすることはなかなか大変である.なので,このタイミングで呼び止められたときはいずれにしても,ちょっと自分には緊張が生じるのだ.
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